220116 ベストアルバムについて
個人的な(昨)年間ベストアルバムを、時期を逸してしまっている感はありますが紹介したいと思います。
(左上から)
Eiko Ishibashi / Drive My Car Original Sound Track
作品の雰囲気や情景以上のことを、胸の内に湧き上がらせてくれる素晴らしいアルバムで、いろいろ大変な一年でしたが、折々で日常を特別に感じさせてくれました。映画も含めて、21年のベスト。
DâM-Funk / Above The Fray
デイムファンク。これまでの作品もビンテージなシンセサウンドでファンクしながらアンビエンスもあるという音楽性ですが、21年リリースは一層アンビエント成分が濃くなっている上、曲のバリエーションも豊かです(変名義含め計3枚出しており、どれも良いです)。
Danny Scott Lane / Caput
打楽器を多用したバレアリック/かわいい系のアンビエントで、アートワーク含めてすごく良いです。写真家兼ミュージシャンだそうで、経験則上こういう場合は写真作品も気に入ることが多いんですが、インスタを見る限り好みと違いました…
FNCY / FNCY BY FNCY
ここ2年ぐらい、元気を出したいときはFNCYを聴いたり、歌ったりしてます。90年代、00年代へのリスペクトと今っぽさ(歌詞含め)の混ぜ方がすごく上手くて、お洒落だと思います。
Erika de Casier / Sensational
誰かのツイートで知り、どこの誰かもよくわからないのに死ぬほど聴きました(デンマークの人らしい)。歌の軽さ、スムースさの一方で、ウェルメイドでブラコンぽさのあるサウンドは思わず踊りだしたくなります。すごくかっこいい上にポップで聴きやすく、宇多田ヒカル好きな人には特にスッと入ってくると思います。
Ace Hashimoto / Play.Make.Believe
初代プレステの起動音から始まる時点で最高。初めての自分名義作品のようですが、輝かしいキャリアに裏打ちされた完成度の高さと聴き心地の良さです。
aespa / Dreams Come True
初のミニアルバム「Savage」をもともとベストに入れるつもりだったんですが、年の瀬に素晴らしいリリースがありました。原曲は韓国女性アイドル黎明期を支えたS.E.Sが98年にリリースしたヒットナンバーです。
aespaは元々コンセプチュアルなグループとして知られていますが、どちらかというとSMエンターテイメントの現代的なメタバース構想「SMCU」に関連した特徴(メンバーそれぞれがアバターを持つなど)にこれまで注目が集まってきたと思います。Dreams Come Trueは、初代プレステやネット黎明期のヴァーチャル感を感じさせるビジュアルで、冒頭のラップにあるように「Let's bring back 90's」というコンセプトが(おそらく初めて)はっきりと打ち出された作品。カルチャーシーンでも(レイブとか)90-00年代を回顧→取り入れる流れがありますが、そういった現行の潮流とK-POPが呼応しているというのはワクワクします。今後の活動も楽しみです。(ちなみにWinter推しです)
arauchi yu / Sisei
ceroの屋台骨/キーボーディスト、荒内佑さんの初ソロ作。ジャジーなムードとバンドの作品にも通じる複雑な構成で、楽しく聴き飽きない1枚です。リビングでゆったりしたいときに聴きましょう。
The Zenmenn / Enter The Zenmenn
僕が最も信頼を寄せるレーベル「Music From Memory」から鮮烈デビューしたバンド。正体不明でプロフィールもよく分かりませんが、細野晴臣的エキゾチカやグルーヴ感で、万人におすすめできる1枚です。
ちなみに、2022年は残り95.9%なんだそうです。すでに4.1%過ぎ去ったということです。あけましておめでとうございます!
210106 ベストアルバムについて
あけましておめでとうございます🎍
旧年中お世話になった皆さま、その節はありがとうございました。今年もよろしくお願いします。残念ながらお会いできなかった皆さん、気兼ねなく会える日までどうか健康に気をつけてお過ごしください。
さて、今年も自分の気に入った当年中のアルバムをピックアップさせてもらいます。何気なく選ぶうちに、自然と室内でゆっくり聴くのに好ましい作風の9枚になった気がします。お家で過ごす際の参考にしていただけたら嬉しいです🐻🙏
(左上から→右下へ)
○Okada Takuro / Morning Sun
フォーク、ロックってまだこんなに面白くて豊かになれるんだと聴くたびに感動する1枚。豊かなルーツと卓越した音作りのなせる技。今の日本で最も重要な音楽家の1人だと思います。
○Park Hye Jin / How Can I
世界的なK-POPブームのB面でクラブミュージック界も韓国勢が席巻する中、その筆頭 : パク・ヘジンが英Ninja TuneからリリースしたEP。Yaejiとかもそうですが、こういうハウス〜ヒップホップ〜ポップスを横断するミュージシャンは好きです。年末の来日公演は残念ながら延期されましたが、気長に待ちましょう。
○mei ehara / Ampersands
編成が変わって、よりタイトなサウンドになりました。キセルがプロデュースした前作よりも歌が前に出ている気がします。LPですり減るほど聴いた1年でした。昼下りに温かい飲み物と一緒にどうぞ。
○Awkward Corners / Dislocation Songs
エキゾ/浮遊感/バレアリック/スペーシー/ダウンテンポ/ヴィンテージ…これらの単語のうち2つ以上に琴線が触れる方は聴いてみてください。イスラマバード出身の英DJ/ミュージシャンChris Menistのデビュー作。実験的な作風ではありますが、全然肩の力を抜いて気楽にのんびり聴けるパーカッシブアンビエント。3曲ほど参加してる英タブラ奏者Swarthy Korwarは注目株らしいです。タブラにディストーションをかけたりしてるのかな?とても良いです。
○Shohei Takagi Parallela Botanica / Tryptych
ceroのボーカル髙城昌平さんのソロ初アルバム。髙城さんはアメリカ文学(カーヴァーなど)がお好きなイメージですが、まさにそういう世界観が体現されている気がします。アンビエントでアナログな質感のサウンドとルーツが濃く香るメロウネス。くすんだダイナーのテーブル、ノイズ交じりのラジオから流れる深夜プログラム、消えかかった煙草…。プロデュースはsauce81で生音感と現代的なビート感が絶妙なバランス。
○Roos Jonker & Dean Tippet / ST
2018年夏、免許合宿で訪れていた秋田県のココスの有線でオランダの才媛:ジャズシンガー:ルース・ヨンカーの音楽(前作"Roos")に出会いました。10年ぶりにリリースされた今作は、よりリラクシンで素朴な打ち込みとギターなどが楽しいジャジーポップアルバム。ベニー・シングスのバンドWe'll make it rightにも参加しています(こちらもオススメ)。まじで家でのんびりしたいときに聴いてほしいです。
○青葉市子 / アダンの風
この年の12月にこのアルバムが届いたということがありがたすぎてまず泣けるし、その後内容を聴いてさらに泣けます。テニスコーツのさやさんとかもそうですが、声の持つ力がすごすぎて、何らかの神性、霊的なものすら感じます。フォーク〜アンビエント〜ボサノバなど横断していますが、個人的にはめちゃめちゃメロディが強いなと思いました。Pilgrimage、Dawn in the Adanあたりは宇多田ヒカル並にメロディすごいです(なんとなくわかる人いますか?)
○Autechre / SIGN
前作が2時間×4の8時間だったこともあり、各音楽サイトで「久しぶりの普通のアルバム」とか書かれていて面白かった1枚。やはりビートやテクノの概念をぶっ壊し続けてきた2人とあって聴けば聴くほど味わい深いです。リスニングミュージックとしてオススメするのは微妙ですが、"本気"を出したいときには最適かもしれません。同時期にもう1枚、PLUSというアルバムもリリースされましたが、SIGNの方が(メロディアスとは到底言い難いですが)割と上物が鳴ってます。
○Turn On the Sunlight / Warm Waves
LAシーンを代表する"スピ"ジャズグループ:Build An Arkのカルロス・ニーニョらが結成したユニットによるオーガニックかつスペーシーなアンビエントアルバム。ひげもじゃの怪しいおじさん達が深い森のせせらぎのそばで大麻吸ってヨガしながらみんなで楽器吹いてるイメージです。案の定ララージも参加。安倍昭恵さん、アン・ミカさんとかにもおすすめです!
もし聴いてないものがあったらぜひどうぞ。では改めて、今年もよろしくお願いします。
201207 My Dad Sleeping Too Loud (hyperdub remix)について
COMPUMAが今年出したミックスCD(COMPUMA - Innervisions :CD | Newtone records (newtone-records.com) )を、移動中の車内で聴いていた際、普段あまりテクノなどを聴かない同乗者が「エンジン音かと思った」とつぶやいた。ちょうど4つ打ちすらもなくアブストラクトに低音とノイズが絡む箇所で、つまるところ車内に響くその音を「音楽」だと認識していなかったということだけど、私自身が「音楽」として「聴取」しているその音が、人によっては「音楽」と認識されないというのは面白いなと思った。
数年前に友人がSound Cloudにアップしていた曲を思い出した。曲名から推測するに、お父さんのいびきをこっそり録音し、ハイパーダブ(?)に仕立て上げたものだと思う。フィールドレコーディングしたそのままの音源(いびきそのもの)もあがってるのでそれを聴くと、確かに「お父さんのいびき」という感じでまた面白いのだけど、同時に、池田亮司的「音楽」らしさも感じられる。本人が企図していたかは別として、そもそも「音楽とは何だろう」(ポパイ?)という問いをつきつけられた気がした。
▽
そんなことを漠然と考えていたら数日前、古本屋で佐々木敦の「テクノイズ・マテリアリズム」を発見した。浅学で知らなかったが、まさにそういった主題について取り組んだ論考らしい。こういう運命的な本との出会いはすごくうれしい。近いうち、内容と感想をまとめられたらと思います。
※ちなみに古本屋はこちら(コメ書房 (shopinfo.jp))。富山県南砺市の田んぼのど真ん中、農家の離れを改装したクレイジーな(かつセンスの良い)お店でおすすめです。
201129 T.A.Z.についてのメモ2
ところで、T.A.Z.に至ったいくつかの要因とは何か―
◎「革命と地図の閉鎖」 p193-201
・未だかつて革命はアナーキストの夢(=国家なき国家、コミューン、P.A.Z. : 持続する自律ゾーン、自由な社会、自由な文化)の達成に帰着したことがない。反乱の瞬間にはヴィジョンが生き返る― だが、「その革命」が成就して「国家」が復帰するときには〈既に〉その理想は裏切られている。
一方で、仮に〈アナーキスト文化に自然発生的に花開いた蜂起〉というアプローチでもって革命にのぞんだとしても、国家、帝国との正面衝突からは無意味な殉教に終わる以外にしかたないだろう。
→その点、T.A.Z.は国家とは直接的に交戦しない反乱のようなものであり、(国土の、時間の、あるいはイマジネーションの)ある領域を開放するゲリラ作戦であり、それから「国家」がそれを押しつぶすことができる〈前に〉、それはどこか他の場所で/他の時に再び立ち現れるため、自ら消滅する…暴力と殉教へ導かれる必要のない反乱と一体になった高揚、という特質を与えてくれる。
・管理されておらず、課税されていない地球は1吋たりとも存在しない=どの民族国家からも要求されていない地球の最後のひとかけらさえ、19世紀でむさぼり尽くされてしまった。〈未知の世界〉(terra incognita)はすでにない。
→だが、地図が抽象概念であるがために、隠されて折りたたまれた無限の空間はそこから免れている。そのフラクタルな広がりの内に自律ゾーンが開かれるはずで、サイコトポロジーでもって、その潜在的なT.A.Z.を探り出すことができる。
◎3つの「ポジティブな」要素 p201- 208
1. T.A.Z.の基本的な単位は、家族(核家族)ではなく、より根本的でよりラディカルなもの、すなわち〈開かれた〉旧石器時代的モデル=〈バンド〉である。
2. T.A.Z.は祝祭としての側面を持つ。時間と場所から解き放たれ、「指図されていない」がためにパーティは常に「開かれて」おり、〈偶発〉性を有する。人間が相互の欲望を実現しようとするのを補佐するのがパーティの本質で、その意味で「エゴイストたちの結合体」なのである。
3. T.A.Z.の活力となるのは「心理的ノマディズム」である。「神の死」によって、ヨーロッパ的プロジェクトは場外へと退けられ、多重遠近法的なポスト・イデオロギー時代の世界観が開かれた。その結果、欲望や好奇心によって動かされる心理的な旅行者=忠誠心の希薄な放浪者=特定の時や場所に縛られておらず変化と冒険を求め移動する人々が生み出された。「神」の最後の断末魔と死の床での喘ぎ:資本主義、ファシズム、共産主義を〈襲撃〉し、「創造的破壊」を行う彼ら:ノマドたちは、T.A.Z.というオアシスを必要とし、求めている。
◎「ネットとウェブ」p209-224
・「ネット」は水平的、非ヒエラルヒー的(←え?)、その影にあたるような性質のものが「ウェブ」
・T.A.Z.は時間や空間において一時的ではあるがアクチュアルに位置を占めるものである。また同時に、ウェブ空間にもヴァーチャルな位置を占め、T.A.Z.間で情報を伝達したり、状況によってはT.A.Z.を保護したり、隠したりする保護システムとしての役割も担う。鍵となるのは、その構造の開放性と水平性で、ネットがウェブの優位に立っていたとしても、データの略奪、海賊放送、そして自由な情報の流通といったウェブの機能を締め出すことはできないだろう。(現代でいうダークウェブか)
・T.A.Z.はインターネットに好意的な態度、たとえば媒介によって起こり得る全ての弊害を克服できるというような態度と同時に、一見それと相反する、強烈な身体性に依拠した環境保護論者的な対面志向(あらゆるメディアによる媒介を拒絶する指向)をも持ち合わせている。
・その矛盾はT.A.Z.にとって重要とはいえない。純粋に自身を存在させること、生き残り、強化していくことを目的とするため、フラクタルな宇宙の中に存在するその居場所は必要だというだけで、テクノロジーに対する賞賛も侮蔑もない。
・複雑でパラレルな加工処理の過程、テレコミュニケーション、電子的「マネー」の移動、ウイルス、ゲリラ的ハッキングといった「カオス」がネットにはすでに登場している。フラクタルの中にそもそもそういったカオスの領域が内包されていたからだ。
・カオスを織り込まれたネットはその信用を傷つけられ、究極的に操作不能となる未来をすでに予感させる。そういったカタストロフはネットの力を損なわせる一方で、ウェブを成長させることになるだろう。T.A.Z.のハッカーたちはその混乱を利用する。
・一方で、我々はパーソナルなネットワークにいくつかの疑問を持っている。確かに、パソコンによって、新興の起業家階級が生まれ、その下部階級を作り出すだろう。主婦が自分の家を電子的な搾取工場に変え、家庭に二次収入をもたらすことだろう。だからといって、多くのアナーキストらが期待したような自己解放の武器として、自由を獲得することにはならない。
・また、わたしはそこから得られる情報やサービスに感銘を受けたことがない。率直に言えば、すでに自分の感覚を豊かにしてくれるもの、書籍、映画、テレビ、劇場、電話などの豊富なデータを備えている。
・T.A.Z.はコンピュータとともに、あるいはコンピュータを伴わずに起こったし、起こりつつあり、これからも起こるだろう。もしコンピュータが無用なら…。克服されねばならないだろう。しかし私の直感的洞察によればすでにカウンターネット=ウェブは存在している。このT.A.Z.理論はそうした直感的洞察によるものである。
▽NOTE
80年代に骨子が編まれたので、本書の中のインターネット像は現在のそれとはかなり異なっている。最も根本的に違っているのは人間とネットのヒエラルヒーだろう。一時的自立ゾーンはアナーキストたちがウェブという不可視の(フラクタルな)空間に、ある種の夢の島、見えざる革命拠点を持とうというコンセプトで生み出されたアイデアだが、現況を鑑みると、もはや主従関係は逆転して、多くの人々が思想信条を問わず、インターネットという「存在」の劣位に置かれて日々振り回されている。純粋なネットワーク=道具という枠はとうに超えて、むしろ積極的に人間に干渉し、世界観や人格を大きく変化させるアグレッシブな「存在」になったインターネットは、「熱狂者たち」(ネトウヨ、オルトライト、アナーキストなども含む)を「永続的他律ゾーン(P.H.Z.)」に誘いこんだ。人間の処理能力を遥か超えた「速さ」で情報が流れ込み、AIという「電脳」に思考や経験の一部がアウトソーシングされた世界。虚実が平等に扱われ、惨めな現実もスクリーンの背後に隠される世界。無限に開かれているがゆえ、彼らはすすんで隘路を選ぶ。「不正選挙!」「差別主義者!」「ディープステート!」「マスコミは操られている!」。早くリツイートして不正義を駆逐しなきゃ…。メディアが報じない真実を私が伝えなきゃ…。「停滞を許すな!」。加速が加速を呼び、スリルから溢れ出るアドレナリンに恍惚する、地面から身体が、身体から「私」が浮き上がる、そして………………!
201120 vacillation
▽
富山に来てからの時間を振り返ると東京にいた頃に比べて穏やか、ともすればかなり停滞していたように感じる
もちろん、仕事の面や細かい部分では進歩や変化もあるけれど、
人間としての自分の変化というのは良くも悪くもこの1年半、あまりなかったとおもう
やはり、土地の要因は大きいのだろうか
▽
田舎の住人は安定を好む傾向があるとよく言われるけれど、
それは地方出身者がそうなのではなくて、
そもそも能動的な変化の機会をとらえにくい環境にあるというのが理由なんだと思う
それは都市に比べて土地やコミュニティに根差した規範や慣習、絆が強く働く(減速要因が多い)からだし、
また、人、物、金といった様々なリソースに乏しい(加速要因が少ない)からでもある
そうした環境で生きるうちに、強く変化を求める人は土地を離れ、
そこまでではない人は土地に残る選択をする(もちろん都市で生まれ死ぬ人もいる)
そうして土地土地にグラデーションが生まれる
当然のことだ
(本当に?)
ーたいまつか、または燃える息の一触で、この世の生が終ったとしよう。肉体は破壊されて転っている。確かにここにあるのは死だね。一方、来世から魂が、……heartだから、心と訳した方がいいかも知れないけれど、ともかく肉体に対立するものが、現世の来し方をふりかえる。そうやって、矛盾のままに生きた生を後悔する……(『燃えあがる緑の木』第二部pp.260-261)
イェーツ「Vacillation」I節を読む~『燃えあがる緑の木』第二部を手がかりにして~ - かるあ学習帳
立ち返ってみると、変化を好む性向と安定を好む性向、人間はどちらもそれぞれ持ち合わせている
生まれてから死ぬまで肉体も精神も変化し続けるという決して逃れられない生命のドグマの中にあって
誰しもが変化の加速、減速、受容、拒絶を繰り返しながら生き続けているわけで、
その人を規定するのは、ただその一定の緊張関係のありようの差なんだろう
一つ言えるのは、ブレーキを踏むことはできても、完全に止まることはできないということ(高速道路みたいに…)
落ち着いて考えるとすごく怖い
1年ぶりに会った人に対して「変わってしまったな」というさみしい気分を抱くことがあったとして、
それはむしろこちら側が相手の変化を「拒絶した」ということでしかなく、
あるいは「変わっていなくて安心したな」と思った場合には、
いくぶんか願望が先行しすぎているということなのだから
そしてそれは自分に対してもそうだ、同一性というのはほとんどが信用に値しない
常にあいまいで、矛盾した存在
みんな死後に後悔するんだろうか
▽
生きるということは、自分自身の変化との向き合い方そのものが変化していく過程=2つの性向の終わりないせめぎあいの過程だ
そして対人関係(特にその極致としての愛すること)においては、
その過程を微分して、ゆらぎ、その大きさや速さ、態様を
どのように捉えるかというのが重要な要素となる
例えば、愛するゆえに変化していく、揺れ動いていく相手を受け入れられず、
引き留め、固定しようとしてしまう臆病さは、
健気で切実でもありながら、
変化を認めない、自分の求めるあなたでいてくれというエゴイズムとも表裏一体で、
その願望は、
書面で縛り付けたり、物理的に縛り付けようとしたり、
記憶や思い出に閉じ込めて愛玩の対象にしてしまったりという形で結実することとなる
▽
誰しもそういう感情は持ちうるだろう
だって怖いし
とはいえ、全く変化のない、思った通り、期待を裏切らない人間は
それはそれでリアルな存在ではない
(バーチャル/フィクションか、お人形か、死んでいるかのどれかだろう)
変化してほしくない気持ちと、日々揺れ動き生きる相手を思う気持ち、
その葛藤やエゴ、恐れをどうにか乗り越えて、認め合うこと
とても難しいことだけど、せめて他人と理解しあう上で、この「揺れ動き」が人間を人間たらしめているのだということは心にとめておきたい
皆さんも大切な人の変化におびえてしまう気持ちは大切なんだろうけど、その先にはあまり明るい展開は待ち受けていないかもしれないし
イェーツや大江のいうそれとは違うけど
人が生きて変化していくことへの歓び、愛おしさ、怯え、さみしさ、
全てを抱えながら、お互いが「矛盾のままに生きる生」をどう恐れずにいられるか
少しずつ揺れ動くということを理解して克服していきたい
イェーツの、ふたつの極の間の生というのはね、僕の解釈だと、……総領事のそれとはくいちがうかも知れないけれどもさ、なにより両極が共存しているということが大切なんだよ。愛と憎しみという両極であれ、善と悪という両極であれ……それを時間についていえば、一瞬と永遠とが共存しているということでしょう?ある一瞬、永遠をとらえたという確信が、つまり喜びなんだね。(『燃えあがる緑の木』第二部p.263)
イェーツ「Vacillation」I節を読む~『燃えあがる緑の木』第二部を手がかりにして~ - かるあ学習帳
おそらく停滞局面にいるであろう自分も、何かしら日々変容しつつあるわけで、その有り様をしっかり見つめる必要があるなと最近思っています
201116
シャワーのお湯がすぐに温まらないので、落ちている髪の毛を流しながら少し待ち、その後全身を濡らす。それぞれツープッシュで、髪、顔、身体を素早く洗い、およそ2分後、浴室のすぐ外のスマホで音楽を流し始める。換気を消し、電気を消す。ぬるい湯船に入る
◯
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゜
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暗闇の中、バブだけが発泡する
遠くから風の音が聞こえた気がして、風流だなと思った(今思えば、電車の音だったかもしれない)。途端にシュワシュワいうバブが邪魔になって、お湯の中手探りで握りつぶすと、音は小さなかけらになって暗闇の四方に広がり、やがて消えた。たまに、しぶといやつがいる。身体を動かすと波に沈んで一瞬音は止み、また浮上する。しばらく頑張った後で、消える。換気扇を伝って、どこかの部屋のテレビが聞こえた