201129 T.A.Z.についてのメモ2

f:id:great_ganges:20201113214550j:plain

ところで、T.A.Z.に至ったいくつかの要因とは何か―

 

◎「革命と地図の閉鎖」 p193-201

・未だかつて革命はアナーキストの夢(=国家なき国家、コミューン、P.A.Z. : 持続する自律ゾーン、自由な社会、自由な文化)の達成に帰着したことがない。反乱の瞬間にはヴィジョンが生き返る― だが、「その革命」が成就して「国家」が復帰するときには〈既に〉その理想は裏切られている。

一方で、仮に〈アナーキスト文化に自然発生的に花開いた蜂起〉というアプローチでもって革命にのぞんだとしても、国家、帝国との正面衝突からは無意味な殉教に終わる以外にしかたないだろう。

→その点、T.A.Z.は国家とは直接的に交戦しない反乱のようなものであり、(国土の、時間の、あるいはイマジネーションの)ある領域を開放するゲリラ作戦であり、それから「国家」がそれを押しつぶすことができる〈前に〉、それはどこか他の場所で/他の時に再び立ち現れるため、自ら消滅する…暴力と殉教へ導かれる必要のない反乱と一体になった高揚、という特質を与えてくれる。

 

・管理されておらず、課税されていない地球は1吋たりとも存在しない=どの民族国家からも要求されていない地球の最後のひとかけらさえ、19世紀でむさぼり尽くされてしまった。〈未知の世界〉(terra incognita)はすでにない。

→だが、地図が抽象概念であるがために、隠されて折りたたまれた無限の空間はそこから免れている。そのフラクタルな広がりの内に自律ゾーンが開かれるはずで、サイコトポロジーでもって、その潜在的なT.A.Z.を探り出すことができる。

 

f:id:great_ganges:20201201164454j:plain

自然界のフラクタルを代表するロマネスコ

 

 

◎3つの「ポジティブな」要素 p201- 208

1. T.A.Z.の基本的な単位は、家族(核家族)ではなく、より根本的でよりラディカルなもの、すなわち〈開かれた〉旧石器時代的モデル=〈バンド〉である。

2. T.A.Z.は祝祭としての側面を持つ。時間と場所から解き放たれ、「指図されていない」がためにパーティは常に「開かれて」おり、〈偶発〉性を有する。人間が相互の欲望を実現しようとするのを補佐するのがパーティの本質で、その意味で「エゴイストたちの結合体」なのである。

3. T.A.Z.の活力となるのは「心理的ノマディズム」である。「神の死」によって、ヨーロッパ的プロジェクトは場外へと退けられ、多重遠近法的なポスト・イデオロギー時代の世界観が開かれた。その結果、欲望や好奇心によって動かされる心理的な旅行者=忠誠心の希薄な放浪者=特定の時や場所に縛られておらず変化と冒険を求め移動する人々が生み出された。「神」の最後の断末魔と死の床での喘ぎ:資本主義、ファシズム共産主義を〈襲撃〉し、「創造的破壊」を行う彼ら:ノマドたちは、T.A.Z.というオアシスを必要とし、求めている。

 

 

◎「ネットとウェブ」p209-224

・「ネット」は水平的、非ヒエラルヒー的(←え?)、その影にあたるような性質のものが「ウェブ」

・T.A.Z.は時間や空間において一時的ではあるがアクチュアルに位置を占めるものである。また同時に、ウェブ空間にもヴァーチャルな位置を占め、T.A.Z.間で情報を伝達したり、状況によってはT.A.Z.を保護したり、隠したりする保護システムとしての役割も担う。鍵となるのは、その構造の開放性と水平性で、ネットがウェブの優位に立っていたとしても、データの略奪、海賊放送、そして自由な情報の流通といったウェブの機能を締め出すことはできないだろう。(現代でいうダークウェブか)

・T.A.Z.はインターネットに好意的な態度、たとえば媒介によって起こり得る全ての弊害を克服できるというような態度と同時に、一見それと相反する、強烈な身体性に依拠した環境保護論者的な対面志向(あらゆるメディアによる媒介を拒絶する指向)をも持ち合わせている。

・その矛盾はT.A.Z.にとって重要とはいえない。純粋に自身を存在させること、生き残り、強化していくことを目的とするため、フラクタルな宇宙の中に存在するその居場所は必要だというだけで、テクノロジーに対する賞賛も侮蔑もない。

・複雑でパラレルな加工処理の過程、テレコミュニケーション、電子的「マネー」の移動、ウイルス、ゲリラ的ハッキングといった「カオス」がネットにはすでに登場している。フラクタルの中にそもそもそういったカオスの領域が内包されていたからだ。

・カオスを織り込まれたネットはその信用を傷つけられ、究極的に操作不能となる未来をすでに予感させる。そういったカタストロフはネットの力を損なわせる一方で、ウェブを成長させることになるだろう。T.A.Z.のハッカーたちはその混乱を利用する。

・一方で、我々はパーソナルなネットワークにいくつかの疑問を持っている。確かに、パソコンによって、新興の起業家階級が生まれ、その下部階級を作り出すだろう。主婦が自分の家を電子的な搾取工場に変え、家庭に二次収入をもたらすことだろう。だからといって、多くのアナーキストらが期待したような自己解放の武器として、自由を獲得することにはならない。

・また、わたしはそこから得られる情報やサービスに感銘を受けたことがない。率直に言えば、すでに自分の感覚を豊かにしてくれるもの、書籍、映画、テレビ、劇場、電話などの豊富なデータを備えている。

・T.A.Z.はコンピュータとともに、あるいはコンピュータを伴わずに起こったし、起こりつつあり、これからも起こるだろう。もしコンピュータが無用なら…。克服されねばならないだろう。しかし私の直感的洞察によればすでにカウンターネット=ウェブは存在している。このT.A.Z.理論はそうした直感的洞察によるものである。

 

▽NOTE

 80年代に骨子が編まれたので、本書の中のインターネット像は現在のそれとはかなり異なっている。最も根本的に違っているのは人間とネットのヒエラルヒーだろう。一時的自立ゾーンはアナーキストたちがウェブという不可視の(フラクタルな)空間に、ある種の夢の島、見えざる革命拠点を持とうというコンセプトで生み出されたアイデアだが、現況を鑑みると、もはや主従関係は逆転して、多くの人々が思想信条を問わず、インターネットという「存在」の劣位に置かれて日々振り回されている。純粋なネットワーク=道具という枠はとうに超えて、むしろ積極的に人間に干渉し、世界観や人格を大きく変化させるアグレッシブな「存在」になったインターネットは、「熱狂者たち」(ネトウヨ、オルトライト、アナーキストなども含む)を「永続的他律ゾーン(P.H.Z.)」に誘いこんだ。人間の処理能力を遥か超えた「速さ」で情報が流れ込み、AIという「電脳」に思考や経験の一部がアウトソーシングされた世界。虚実が平等に扱われ、惨めな現実もスクリーンの背後に隠される世界。無限に開かれているがゆえ、彼らはすすんで隘路を選ぶ。「不正選挙!」「差別主義者!」「ディープステート!」「マスコミは操られている!」。早くリツイートして不正義を駆逐しなきゃ…。メディアが報じない真実を私が伝えなきゃ…。「停滞を許すな!」。加速が加速を呼び、スリルから溢れ出るアドレナリンに恍惚する、地面から身体が、身体から「私」が浮き上がる、そして………………!